第十六番 教興寺

秦川勝が聖徳太子の発願をうけて建立。高安山麓一帯にゆかりの地名をとどめる大寺院。真言律宗別格本山。

第十六番札所

法語=一味和合 

◆大阪府八尾市教興寺七ー二一  TEL072(941)7261

教興寺の山門
教興寺の本堂

仏教興隆の寺

聖徳太子の物部守屋征伐の後、秦川勝が太子の発願をうけ、高安の里に、仏教を始めて興すという意味の寺「教興寺」を建立、獅子吼山大慈三昧院と号しました。大阪四天王寺もまたこの同時期に建立されたと伝えられます。

現在境内の周辺には寺池、大門、重塔池といった地名が残っています。このことから古く教興寺は南の大門を入ると泉池があり、これを渡って本殿に達する臨池式堂塔配置をなしていたと考えられています。金堂に弥勒菩薩、講堂に千手観音を安置し、高安山麓一帯の広大な寺域に七堂伽藍の建立されていたことが多くの地名から伺われます。

西大寺叡尊

鎌倉時代には、西大寺叡尊の弟子阿一上人の和歌で、「立田山あらしの音も高安の里は荒れにし寺と答えよ」と玉葉集に詠われているように、教興寺はすたれていたと思われます。

文永六年(一二六九)西大寺中興の祖、叡尊が教興寺に参詣し、その荒廃した姿を見て心を痛め、復興の志を立てます。叡尊は西大寺を中心に戒律思想の民衆化をはかり、同時に庶民の教化と救済に奔走して、すぐれた社会事業家としても崇められる高僧でした。

その叡尊の発願と努力がやがて実を結び、教興寺堂宇が立派に再建されました。この事は現在高野山金剛峯寺に残っている「弘安三年(一二八〇)庚辰正月二十五日修理本願南都西大寺長老叡尊」の銅鐘で知ることができます。

また文永・弘安の蒙古襲来の折、勅命をうけた叡尊は教興寺講堂千手観音の前で蒙古降伏のための大祈祷を行い、祈願成就したことが異国襲来記(山崎宗鑑写)に記されています。

鐘楼
鐘楼
千手観音
千手観音
市指定の楠木
教興寺の萩

河内国利生塔

室町時代に入って間もなく、暦応二年(一三三九)足利尊氏が僧疎石の勧めにより、弟直義に命じて全国に安国寺及び利生塔を設けて利生安国を願いました。この年、河内国の安国寺は加美正覚寺内、利生塔は教興寺内に建立したようで、室町時代初期、教興寺は足利氏の援助で寺領も保証され、相当の繁栄を保っていたようです。

それが戦国時代に入って永禄五年(一五六二)当寺に陣していた河内守護畠山高政が三好義興・松永久秀軍に襲われ、激戦の末敗退、紀伊に逃れました。この戦で寺は伽藍を焼失し、またしても荒廃にまかされることになります。

浄厳和尚による再興

江戸時代に入り、延宝七年(一六七九)南河内に生まれた浄厳覚彦和尚によって本堂・祖師堂・鐘楼が再建されました。鐘楼は梵字の入った珍しいもので、この梵鐘は梵字の達人浄厳の残した傑作の一つといわれます。

また浄厳が高野で修行中たまたま会い、親交をもったという近松門左衛門が、長らく当寺に滞在していたときに、この地のお初徳兵衛の恋物語を聞き、、有名な曽根崎心中を作ったと伝えられています。

浄厳和尚の像
教興寺の本堂

現在の教興寺

明治初年、政府の神仏分離令による廃仏毀釈が寺院や仏像に与えた危害は甚大で、教興寺もその例外ではありませんでした。いまの教興寺は、八尾市指定樹木の楠の古木がそびえ、もと客殿であったという仮本堂と鐘楼だけが残り、往時の大寺院の面影はありません。

それでも門前や境内には、長い盛衰の歴史を耐えてきた寺ならではの寂寞とした趣が漂っています。近鉄高安駅から東へ一直線に六百メートル行ったところ、正面にあるのが教興寺です。往時教興寺の堂で現在残っているものとして大通寺、梅岩寺などがあり、また梅岩寺隣の岩戸神社は明治期までは当寺の奥の院だったものです。

教興寺の仏像群