弘法大師が
法語=聞仏真言即得歓魂
◆大阪府東大阪市南荘町十四ー二十 TEL072(987)5245
額田の豪族高内重行が応永二年(一三九五)に先祖の旧記を記した『ぬかた縁起』に、「額田寺は弘仁年中に弘法大師高野山をひらき京より南山に至り、平城より難波へ越たまう路次の止宿のために額田の首高内皆人の皇子の社のかたわらに一寺をいとなむ‥‥」とあり、弘仁年中に弘法大師の宿所として高内皆人が額田寺を建立したと記されています。
人びとは皆大師に帰依し、大師もまた自ら身丈一尺七寸余の本尊薬師如来を刻し、脇士に日光月光十二神将を安置したといわれます。現在の額田寺周辺に、旧寺の存在を示す小字名として、寺垣内、寺の前、寺の西、寺の馬場などの地名が残り、昭和三十四~三十五年には付近の道路や水田で鎌倉時代から室町時代の古瓦が見つかっています。
これらのことから、旧額田寺堂跡が付近一帯に広がっており、かつては広大な寺観を誇る名刹であったことがわかります。明治六年には、江戸時代の高僧慈雲尊者ゆかりの長尾山不動寺が廃寺となり、弘法大師作の本尊不動明王も額田寺に移されました。
額田寺本堂は天正年間の建立になるものといわれていましたが、昭和十四年の火災で焼失。そのとき大師作と伝えられる本尊薬師如来や不動寺から移された不動明王といった貴重な仏像も惜しいことに罹災焼失してしまいました。現在はその後に迎えられた金色の本尊薬師如来が祀られています。