役行者開基といわれ、
法語=十善是菩薩道場
◆大阪府南河内郡河南町平石五三九 TEL072(193)2924
神下山高貴寺は大和へ向かう平石峠にほど近い山ふところにあり、ここは河内あすか、大和あすかを結ぶ支線として早くから開けたところです。約千二百年前、役行者によって開創されたと伝えられます。毎朝諸仏に供養する花(香華)が絶えず、水清く、香花寺と称されていました。
のちに弘法大師が来山、密法修行中に高貴徳王菩薩を感得し、それで高貴寺と呼ばれるようになります。勅命により金堂、講堂、東西両塔、経蔵、鐘楼堂、大門が創建され、五大明王を刻し、伽藍の本尊とされました。また国家と寺門繁栄のためにと弁財天像が刻され講堂に安置されました。
のち大徳智泉や鳥羽僧正範俊らの高僧が来住することもあって、十一~二世紀までは、法燈は四方に輝いたと伝えられています。元弘元年(一三三一)当寺の檀越平岩氏が平石城を拠点に北条軍と戦った折に、当寺は堂宇ことごとくを焼失しました。
以来寺はすたれたまま近世に至ります。下って江戸時代の後期安永五年(一七七六)、慈雲尊者が当寺に来住し、僧坊を整備、正法律宣布の根本道場に一新しました。
天明六年(一七八六)幕府の認可を得、正法律高貴寺一派総本山を称し、法燈を守り続けてきましたが、明治六年以後は金剛峯寺末に属することになります。
慈雲尊者は当時の頽廃した仏教を、釈尊の正法にかえそうという願いから、梵字梵学の研究、袈裟の改革、僧侶の育成、上下僧俗の教化など不朽の大業をのこした高僧です。尊者の学問は、梵学・仏学を中心に、儒学・神道に及び、その著述はぼう大な数に上っています。
生駒・長尾の滝の双竜庵で、前人未踏の梵学(サンスクリット学)の研究にとりくみ、十善の大道を説き、「梵学津梁」一千巻、「十善法語」十巻等を著しました。桃園天皇の生母開明門院、郡山藩主柳沢保光ほか、尊者に帰依する人は皇族をはじめ、藩主・僧尼・在家一千人に及んだといいます。文化元年(一八〇四)没。当寺奥の院に葬られています。
静寂に包まれた境内は、春は樹齢百年を超えるという枝垂桜、秋は楓が見事です。白木蓮や参道に沿って咲く山茶花など四季折々の彩りも美しく、その季節を楽しみに毎年訪れる人も少なくありません。
近くにある磐船神社は山をご神体とした古社で、もとは高貴寺の鎮守であったのが明治の神仏分離によって寺から離れたもの。眺望がよく、ぜひ足を運んでみたいところです。