長野善光寺の
法語=仏心者大慈悲是以無縁慈摂諸衆生
◆大阪府八尾市垣内四ー四一 TEL072(941)0550
この国に仏教が伝わってまもないころ…仏教派と反対派が相争うなか、大和橿原の向原寺で仏さまがお祀りされました。その後まもなく国中で疫病がはやり、それ見たことかと在来の神さまをあがめる反対派が勢いづき、戦いがおこり、反対派が勝利しました。
彼らはこの仏さまを放置すればまた誰かがどこかで祀るだろうと恐れました。そこで仏さまを七日七夜、鉄をも溶かすたたらにかけたのですが、閻浮檀金という金属で造られた仏さまは溶けません。それならとこんどは難波の堀江という池に沈めてしまいました。
のちにこの話を聞いた聖徳太子が、「もったいない、私がおすくいしよう」としたところ、「今あなたに拾われるより、のちにもっと因縁の深い人に拾われるから、このままに」という仏さまの声が聞こえました。
あるとき信州から主人の都仕えのお供で大和に来ていた本田善光という人がこの地をお参りにまわっていて、堀江の池の端を通ったとき、背中が急に重くなりました。あの仏さまが善光の背にうつられたのです。信心深い彼は仏さまを背負い信州へ帰ることにしました。
途中、信貴山の毘沙門天にお参りしたあと高野街道へ出るところで日が暮れ、一軒の農家に宿を借りました。農家の人は仏さまを見て、ぜひここで祀らせてほしいとたのみますが、かなわず、近所の人も共に一晩拝みました。すると翌朝なんと、仏さまが二体に分身されていたのです。こうして善光は信州へ帰り、この仏さまをお祀りして大きく育ったのが今の善光寺です。
ずっとのち、本田善光はお祀りされている仏さまの分身をお参りしたいと、再びこの地を訪れます。そのおり道々ついてきた生木の杖を、「本当に仏さまがここに心地よくおとどまりになるなら芽の出ますよう、そうでなければ、枯れますよう」と念じて地面に突きさしました。するとそこから楠の芽が出て、今境内にある大木に育ったのです。