622年(推古30年)聖徳太子御侍女・三尼公により創建された日本最初の尼寺で、 常行念仏最古の道場でお念仏の根源地とされる。
法語=如法
◆大阪府南河内郡太子町太子1663 TEL0721(98)0133
推古天皇の30年(西暦622年)に聖徳太子御薨去のあと、その侍女(乳母)であった、月益(蘇我馬子の娘)・日益(小野妹子の娘)・玉照(物部守屋の娘)の三人の姫がその御廟の当地において剃髪・出家されて尼僧となり、その名も善信・禅蔵・恵善と称されて、太子御廟の前に一宇を建立して、聖徳太子の御遺髪を納め、太子御作の阿弥陀如来尊像を安置して、ひたすら弥陀の西方浄土を欣求されたのが西方院の始まりです。
西方院出土の久安5年(1149年)銘軒平瓦には「法楽寺」、建久4年(1192年)に描かれた古図には「法楽尼寺」の名があり、かつては「法楽寺」という寺名であったようです。
1574年(天正2年)の信長の兵火により堂宇は焼失してしまいましたが、ご本尊・阿弥陀如来像を担いで逃げた庵主を信長の兵士が執拗に追いかけて切りつけた刀傷が残っています。阿弥陀様が庵主をお守りくださいました。
戦後まで南河内地方で棟上式のお祝いに唄われていた「ひょうの節」という歌は、江戸時代に入り、1639年(寛永16年)に西方院中興・蓮誉寿正尼が本堂の再建を果たしますことを題材にしています。 「太子寿正坊はおなごやけれど、男勝りの堂建てた」(太子の西方院の寿正尼は女であるが、叡福寺の金堂にも勝るお堂を再建した)という歌は、兵火で荒廃した寺を尼僧が再建・再興したことは類稀なる偉業であったことを示しています。
この寿正尼の再興時から「法楽寺」から「西方院」と呼ばれるようになったようで、 正式名称は「南向山西方院法楽寺」
観音堂には、『往生要集』を著した恵心僧都源信作と伝わる「十一面観世音菩薩」をお祀りしています。当山の十一面観音像は珍しい坐像です。 また、堂内には西国三十三所の観音像をお祀りしており、この前で手を合わせると西国三十三所全てを巡礼したと同じ功徳が得られると言われています。
当山には聖徳太子の遺髪(毛骨)が納まっていると伝えられるがあります。聖徳太子の御遺徳をしのび、ご縁を結ぶためにお念仏の同行は、宗派を問わず各地から、遺髪(毛骨)や遺骨を当山の納骨堂に納められ、また追善供養として永代祠堂を納められ、お位牌をおまつりして春秋のお彼岸、太子お会式、お盆、ご命日に参詣されます。
電車でお越しの方 | |
近鉄長野線 | 喜志駅下車、金剛バス(循環・上ノ太子行)にて聖徳太子御廟前下車右スグ。 ※金剛バス喜志―聖徳太子御廟前は、約10分。 |
近鉄南大阪線 | 上ノ太子駅下車、金剛バス(喜志駅行)にて聖徳太子御廟前下車左スグ。 |
お車でお越しの方 | |
近鉄南大阪線 | 国道170号線で喜志に至り、太子町に向かって東へ約10分。又は高速南阪奈道路にて 羽曳野東で降り東進5分。 西方院駐車場、叡福寺駐車場及び「和みの広場」駐車場あり。 |
新西国霊場第八番札所 | |
聖徳太子御遺跡霊場第三十三番札所(正式加盟予定) | |